カテゴリー: 子供達と

わたしのおじさんの介護の話 5

おじさんが亡くなりました。

胃瘻(いろう)しますか?

強い栄養の注射をしますか?

このあとの延命措置は少し考えておいてください

などと言われていたのですが

あっという間でした。

後半は息が細くなって

寝てばかりでした。

前日に気になっていたので

湘和会堂に見学に行きました

まさかその次の日だとは思いませんでした。

直後に大事だったこと

死亡診断書は看護師や医師が書いてくれるもの

そのあとの引き取りは斎場の人の力を借りないと

難しいと感じた。

亡くなった、さあ迎えに行こうではなくて

施設の場合、時間の調整は効く前提でうごいてしまおう

医師が来ないと死亡診断書が書けないのではない

施設にいる看護師が書ける

聴診器つけて医者が首を左右に振って「ご臨終です」

をやるのかと思ったのですが

平成29年から看護師も書けるようになったそうです

印鑑が三文判でもいいので用意しておくこと

事前に打ち合わせをしておいてよかった。

斎場に運ぶときは若手に任せて、

高齢者はついていかなくてよいこと

そこで段取りはほぼ決めることになる

お墓と宗派と連絡先とこっちの意向を

よく考えておくこと(これができてなかった)

50代くらいのおじさんが中心になって

段取りするべきだろうなと感じました。

事前に斎場との打ち合わせは行ったほうがいい。

ブログに書いたりして不謹慎かなと思ったのですが

お世話になったおじさんんから学ばせてもらおうと

いう姿勢で臨みました。誰かの役に立ったらいいなと

思いました。

私のような人間が他にもこれから急速に増えるのと

私がたくさんの人から支えられておじさんの介護に

向き合えたのはとても幸せなことでした。

何度もなんども心が折れそうになり

家族や会社や友人のおかげでここまでやってこれました。

一人じゃ無理だ。薄くてもいい、細くてもいいから

人数を増やそう。仲間を増やそう。話し相手を増やそう

言葉一つでまたやっていける。

一人でしょいこまないことが言葉は変ですが

うまくいったと思うのです。

私はおじさんが高齢になり、なんとなく認知症が始まった時から

できることはやる、できないことはやらないの

線引きを考えていました。

横浜から相模原に呼んだのも、私の都合でした。

介護施設も私がすべて選びました。

会社の経営と家族を優先しました。

残った力、余った時間でおじさんとむきあいました。

最初からそのつもりでした。

これで良かったのだろうかと思うことも

多々あり、コロナを言い訳に使ったことも

ありました。

サバサバとしたキャラクターで

おじさんを送るつもりでしたが

畳のうえでおじさんが寝ている様子を見て

堰を切ったように涙が出ました。

38年前母親が逝った際、私の枕元に

知らせに来てくれたおじさん。

親父は病院でその後の打ち合わせをしていた。

おじさんは私に知らせるために深夜に来てくれた

働き盛りで貿易会社の役員をされていた。

今よりももっと労働環境は厳しい時代に

たくさんの時間をうちの家族のために使ってくれた

施設に入る際に

「何か困ったことがあったらいつでも相談においで」

と話してくれた。

ながいあいだ私の相談役をしてくれありがとう。

何も知らない私に介護のチャンスをくれてありがとう。

これから私は30年くらい生きられたらいいな

生きたいなと考えていますが

今回のことで介護の一部はわかった気がします。

誰かの介護の役に立つように仕事や家族に知人に

なんかしらの協力のできる人間になりたいです。

包括支援センター、病院、施設、ケアマネージャー

斎場、もう数え上げたら何人のお世話になったかわからない

いい勉強をさせてもらいました。

ありがとうございます。