カテゴリー: 介護の話

わたしのおじさんの介護の話 4

俺の家の話 最終回みました。にぎやかで終わらせないのだな。

心を少し離して見れたので毎週楽しみにしていました。

「明るくやっても、暗くやっても介護は介護ですから」の言葉が

こころに残った。今の私から見ても楽しかった。

さて、おじさん。

年明けから2か月で一気に進みまして、要介護4

この上の要介護5があることに驚いた。

食事は噛んで食べるようなものは取れない

すりつぶしたものしか飲めない。それですら

飲みたがらない。手と頭をいろいろなものにぶつける

イロウしますか?強い点滴使いますか?

どのような治療を今後続けますか?

なんだかこのあたりはどっかで見たことあるような

自然なものを望みたいって思うけど

本人はどうなんだろう。

残されたおばさんも季節の変わり目や温度の変化で

気持ちがあがったりさがったりしているようで

どうする?ときくたびに、本当に困っているよう。

私がぶれると彼女も迷うと思うので

精一杯いい判断をしよう。

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私のおじさんの介護の話3

認知症グループホームに入って1年経過したころ(2020年12月)、施設で今後介護が難しいとのこと。この一年で要介護3。

特別養護老人ホームに申込を入れてほしいと施設側から言われました。

いやそりゃ入れればそれが一番いいけれども・・

実はここのところはすばやく話が進みまして、入居可能となりまして、時期の打ち合わせに入っています。

今回の約2年ほどの間に勉強が出来ました。

転倒=骨折=即車いす生活につながっていること。

もしも車いす生活になった場合に暮らせる自宅なのか否か。

ここまではわかっていることなので、高齢者になる前に考える必要がある。

80歳以上の高齢者の勉強をしておくこと。

認知症の本を何冊か読んでおく。

認知症になる前にロードマップを考える必要がある。

結果から考える。

100歳までいきる。お墓を決めておく。施設に入るならどこにを決めておく。ダメならここダメならここ、候補とイメージを練る。

城を枕に粘る場所を決める。それならば60代のうちに籠城する場所に移っておく。

80歳から90歳の高齢者の勉強をすすめておく。面倒みるともっといい。

長生きリスクを考える。

ここで初めてほしいのは断捨離。

大掃除といいますか、いつも使うもの、使わないものを整理してほしい。

引っ越しの際に一人暮らしで椅子を7個持って行って、狭いって話は経験したことのある人ならわかってもらえるでしょうか。

団塊の世代は物が豊かさの象徴のようで、家には荷物があふれかえっています。

先日の週刊現代に自宅は売るなと言い切っています。半分はその通り、もう半分はそうではないと考えます。

荷物の処分がすすんでいたなら、選択肢を増やすことができます。

荷物が多いことを自分で自覚することから始まるのでしょう。荷物を減らせないと終の棲家も狭く感じてしまう。もうこんなに広い家は必要ないんだ。

身軽になることで、とても気軽に暮らせる。

あの時の料理道具。あの時の服。

すべてが今は使わないものになりつつあるはずです。

認知症になってからでは打つ手がないので、遺言も上手に書いておく。

推定相続人と話をしておく、いろいろ決めておく。

保険と貯金は必要最低限わかるようにしておく。

これらを手配していても、その時の自分が介護されやすい人間になれるかどうか

わからない。って事がわかりました。

介護する側は仲間を増やすこと。相談できる人、愚痴を聞いてくれる人。経験者の仲間を増やすこと。ですが、こうしたほうがいいばかりで状況を見ない、よく話を聞かない人とは距離を保ったほうがよいでしょう。

話を聞かないとイケナイ場面だらけになりますので、話を聴く力を練っておくことも大事でしょうか。

成年後見人の使い勝手の悪さや最終手段なのだというのもよくわかった。

制度が始まって時間がたって、世の中に蓄積がだいぶできてきているようです。

介護した人のブログも読み応えのあるものが増えて来ました。

私は不動産屋。

税理士、弁護士、司法書士、チームが簡単に作れます。メンバーひとりをこの人はどんな人なのかなどと調べる必要がない。今まで取引がある人、今後も取引がある人たち。信用の貯金がたくさんたまっている状態です。

自宅買うことよりもこのポジションは助かりました。

相続の本もネットの情報も今はたくさんあります。真実も多いのですが、本当に

役に立つ情報はその人によって違うわけです。

横山台の包括支援センターでたくさんの知識を得られました。耳学問も大変興味深く聞くことができました。個人的には包括支援センターがなければ心が折れた場面もありました。

5年ほど前から相続セミナーにも参加していますので、相続税対策を練ったり考えたり。

実践の現場ではこのスピード感に驚きました。

双方の遺言を用意してあったり、準備はすすめていたはずですが、本番では引っ越しの手配一つ大変なことです。

自分の親の前に勉強ができたこと、経験を積めたのは大変良かった。

遠くの親戚を近くに住んでもらったときのいろいろな事がぐるぐる回りました。

このフィードバックを皆様にできないか。そんな思いが強くなりました。

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私のおじさんの介護の話 2

年配の親戚が遠くに住んでいて、いよいよさしせまった状況になってきました。

今まで棚上げしてきたけれども、もはやここまで、確実に介護が必要です。

しかし私の自宅相模原から横浜市金沢区までの距離が問題になっておりました。

日々のお見舞いも距離が問題になってます。ひと月に何回行けるか、急な用事で駆けつけられない。2時間かけて行き、1時間滞在して2時間かけて帰る。そのこともストレスになって来ました。

遠くの親戚より近くの他人の言葉の意味がよくわかる。

気持ちだけでは超えられない。

大腿骨を骨折して自宅の階段が昇れない。病院に入って3ヶ月、もうすぐ出なくてはならない。リハビリの様子を見ながら少し歩ける状態では受け皿がない。

そんなリハビリの中、再度転倒しまして今度は逆の足の大腿骨を骨折しました。

緊急の手術です。若い先生が説明をしてくれました。両足になると車いすが前提になります。

転倒による骨折、入院中さらに転倒骨折+軽い認知症。

これがおじさんの状況でした。

この状態がどういうことなのかきちんとわかるまで、時間がかかりました。

この時はまだ「どこの老人ホームに入ろうかな~」ぐらいの気持ちでした。

じゃあ相模原に来ないかしら?近所なら私も色々協力できるし。

取り急ぎ近所の老人ホームのパンフレットを集めました。有料老人ホーム、介護付き、サービス付高齢者住宅、グループホーム…どこも1人20万円以上。オプションを付けて20万円ちょいです。もらっている年金全額納めてやっと住めるのか。

高いなあ。でも仕方ないのか。

当の本人からは、まだ老人ホームに入りたくないとのこと。入れるお金も怪しいけれど、入る気もないのだからどうにもならないじゃん。

最初は確かにこう言っていた。

本人もおばさんも様子を見に行っていた私も。

まったくの人ごと。3人が置かれている状況がだれも把握できていなかった。

私は不動産屋で30年以上働いているのに親戚が快適に過ごせる住まいが用意できないのか。

などとトンチンカンなことを考える始末です。

階段や簡単な段差のある住まいならば、5万円も出せばたくさんあるのに、本格的なバリアフリーの賃貸はほとんどない。

私はこのレベルで考えておりました。要支援ではなく要介護が2になっていたのに。

毎日様子見に行ければ一人で暮らせるのではないか?などと。

おじさんこの程度の認知症なら私の近所に住んでもらえれば何とかなるよ。昔もらったお年玉分ぐらいは頑張るよ。この程度の覚悟で望んでいました。

認知症の判定、ハセガワ式のテストの結果、病院の状況報告。これらから軒並みおじさんの受け入れ先は断られました。

受け入れたいのだけれど、車いすに対応できない。機械式の入浴設備がない。認知症だと難しい・・・

かんたんじゃなかった。3か月のタイムリミットが近づいてくる中で焦り始めました。

そもそも横浜市から相模原市に連れてくること自体が簡単ではなく。

受け入れ先もコネもない。コーディネートの力もない。

やみくもに資料集めて面談に行き書類渡して断られるを繰り返しました。

さまよいました。

さまようって山の中だけじゃない。

リハビリ施設の老健に入れるようになったときは心から安心した。ホッとしました。

三ヶ月だけど一息つける。わかっていた。老健は三か月で出なければならない。

最初から認知症病棟に入る話でした。いわゆる認知症も軽度だ重度だあるようですが

何をもって認知症の重い軽いは書類のみの選考です。

なんとか一般病棟にねじ込みたい。正直私はそう思いました。

書類に書いてあるのは、少々暴言がある。転倒が二回。認知症がある。認知症テストハセガワ式が何点だとか。生活態度などの活字の情報です。

入っていた病院と、受け入れの施設の間で、私がプレゼンテーション出来るような場面はなかった。

プロが作った成績表にしたがってプロが判断してくださるのだからそれでいくしかないのか。

個別の要因や面接面談をすることはできないかな。心の中で葛藤がありました。

おじさんは感情を揺さぶるような出来事や楽しみがあれば少しマッサージというかアイドリングがあれば冗談も言い出すし、笑顔も出て来るし、好奇心を引き出すことができるじゃないの。この状態をキープしていきたいじゃないか。

自宅で生活できなくなった人と一口に言っても、認知症なのか、身体機能が衰えたために食事やお風呂、トイレが難しくなったのか、もしくはその全てか。人によって状況は千差万別です。受け入れる側のマインドを持たないと自分が被害妄想に陥ってしまいそうでした。

たった1年ちょっと前は娘を連れて会いに行くことができた。

連れて行くと目を細めて喜んでくれた。小さな子供を施設に連れてゆくとパッと皆顔が明るくなった。

私がしたいのはこういうことだ。この時間を作りたかった。

これをやろうと思った。

老健から認知症グループホームへ移動。

3箇所のグループホームを見ていて、自分で立ち上がれないひとの介護の難しさに直面しました。

機械式のお風呂設備の有無など、受け入れ側と打合せが重要です。ここでも何度か断られました。

施設に複数声をかけておいて、受け入れ側の状況や人の充足などタイミングがとても重要だった。

認知症グループホームに入って、もうすぐ1年経過します。コロナの影響で面会の回数が激減してしまいました。相模原は病院がはやくから感染の報告があったので、介護施設はどこも厳戒態勢になりました。

2020年の前半にコロナが発症したとなったならば、状況的に非常に厳しい。

都会でも田舎でもないこの地域は良くも悪くも情報があっという間に広まってしまう。

そんななか子供はもちろん、私もおじさんと面会できなくなりました。

ダダ滑りで認知症が進みました。

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私のおじさんの介護の話 1

2年ほど前に親戚のおじさんが転倒により大腿骨骨折した。

86歳と82歳の高齢者夫婦は老々介護。

子供は居ませんでした。

月に一度様子を見ていたのですが、これからは毎週になるかしら

転倒から、病院に入院して、環境が急激に変わりました。

45年同じ場所に住んでいて80歳を超えての入院は大変です。

せん妄も出ました。瞬間的に認知症が進んでしまいました。

この病院はおかしい。陰謀があるようなことを言ってます。

今まで優しくて冗談ばかり言う人でしたが、切れ味が悪くなり、様子がいままでと違う。

今までは、おばさんがおじさんを介護していた。元気な方が介護される側に引っ張られてしまう。

かわいそうだからと言いながら無理をしてしまう

80歳の高齢者が高齢者の面倒を見ることの難しさを想像できていない時点が問題だった。

おばさんもすぐに具合が悪くなり、愚痴っぽい話が増えていきます。しかし人の日々の営みと言いますか、普段の生活の中に正解のような答えを求めるようなことはあまりなく、ごちゃごちゃとした面倒なことを繰り返すのが人と人の関わり合いなんですね。

嫁から別に答えが聞きたくて話しているわけじゃないんだから、ウンウンとうなずいて聞いてくれればいいのよと言われたことがあります。

で、あるならば相手は俺じゃなくてもいいのではないか?などと言う度胸はありませんが。

話を前に進めるために普段仕事をしてますので、この答えを出さなくてもいいから、今の状態を現状維持でうまく繋いでいきましょうのポジションは仕事とは勝手が違うので戸惑います。

くしくも子育て2歳児と0歳児と介護をちょっと離れたところから見るポジションを同時に手に入れたのは勉強になります。

病院の看護師は大変優しくて笑顔が素敵。もう70代後半の方を相当数対応されていて、シャイな人、愉快な人、そうじゃない人も可愛いなどと言いながら接客する様子はプロフェッショナル。

口当たりのいい人に囲まれて毎日暮らして、まわりは皆似たような患者さんたちですので、たった20日でなんとなく大部屋のの中で似た人たちになるような、病院とは病人になる場所なのかもしれないなとも思いました。

看護師達プロはコントロールしつつトラブルがないようにさばきます。

学生時代、個性が大事だ。自分らしさだと教えてもらったのに会社に入ればきっちりカタにはめられる。

それと似たように病院には病院の生活のカタにはめられる。

ロックンローラーはちょっと困る。

入院した当初は元気になったら何をするに満ちていますが、なんとなく時間の経過とともに違う方向に力が、考えが、思いが変わって行きました。

いつか見たテレビCMに一番戦っているのは病気の人だと。確かにそうかもしれません。看病だ様子を見るだなんていうのは、一瞬のことですし、食事も睡眠もお風呂も自由自在ですので、本当の意味では気持ちをわかってあげられないかもしれません。

私の介護の窓口がパカっと開いた瞬間でした。